MARTHA(マーサ) デザイナー 出口氏 MARTHAに至るまで
・第一章 学生時代~イタリアへ渡るまで
――出口さん、こんにちは。インタビュアーのMikaです。今日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
――まずはMARTHA誕生までの軌跡を伺いたいと思います。まずは出口さんの経歴から伺えますか?
わかりました。生まれてからいきます?
――生まれてすぐにファッションに興味を?(笑)
いえいえ。まずは国内の芸大のファッションコースにはいってからですね。
――どうしてファッションコースに入ろうと考えられたんですか?
大学ではいろいろなコースがあって。ファッションと絵画と建築……あとグラフィックなどがあったのですが……
服はもちろん大好きで、それに加えて子供のころから絵は描くのは好きだった。
他の算数とかそういうものよりは評価されてきたんで、なのでそれを伸ばそうかなという感じで。
もともと母が服を作るのをよく見ていたというのもあります。
――なるほど。お母様もお洋服がお好きでいらっしゃったということですね。では大学に入られて、どんなことを学ばれたのでしょうか。
大学では服の作り方、デザイン画の描き方から、あとは縫製の方まで……
専門学校に一般教養がついたような感じですね。
――専門学校よりしっかり学ばれる感じでしょうか。
そうですね。時間かける分、つめるところをばらした感じで。大学なので朝から晩まできっちりやるわけではないです。
その分、服には長い間触れてはいられます。
――卒業後、すぐにイタリアに渡航されたのでしょうか。
そうです。大学終わってすぐですね。
――就職ではなく、すぐに渡航された理由というのをお聞かせいただけますでしょうか。
日本の大学4年間も無駄ではなかったのですが、学べば学ぶほどもっと服作りに興味が湧いて。
このまま仕事に就くよりももっと勉強したいなと感じました。
――その当時はどういう服が好きだったんですか?
そのころって90年代の半ばは、ファッションが熱かったとき、たとえばジョンガリアーノやマックイーンがでてきてみたいな、そういう時期ですよね。
で、ギャルソンもなんかいろいろやっててっていう。
それからヨージがあって……ヨージの第2期の波みたいな。
――じゃあちょっともどりますけど、最初に出口さんが意識した服ってどこのブランドのアイテムなんでしょうか。
僕は……ギャルソンですかね。僕は大学に入って、服の勉強してから服の趣味が変わったんですけど、高校の頃はイタカジブームだったんですよ。
それから大学はいって、服の勉強するようになって、まあそういう服装とは違うファッションの専門学校生寄りな服のほうに興味を持っていった。
――そしたらもう必然的にイタリア行きますよね。
そうですね。ベースにイタリアの服や素材がいいっていうのを最初に植えつけられていて、それからものづくりのほうに入っていったから
服の趣味自体は変わったんですけど、イタリアっていうのはこういう国なんだろうっていうのは残ってはいました。
――で、大学卒業後、イタリア渡航されたと。
そうですね。
――それはどうやって行かれたんですか? 日本語しかご存じなかったということですが、すごい行動力ですよね。
はじめは、とりあえず語学学校に行きました。日本からの留学斡旋業者のようなところに登録をして、入学金を払って、入学認めましたっていうのが送られてきて。
で、4ヶ月……3ヶ月で文法が終わるんですよ。
語学学校って会話と文法があって、文法自体がイタリア語ってそんなに難しくなくて、発音も日本人になじみやすくて。
――語学学校は日本の学校ですか?
いえ、イタリアです。イタリア語でイタリア語の授業を受ける。
日本語も英語も一切なし、イタリア語で文法の授業を受ける、みたいな。
それで3ヶ月で文法が終わるっていうのを聞いてたんで、じゃあ3ヶ月プラス1ヶ月の4ヶ月で語学の方をなんとかそこそこのところまであげて
それから向こうは9月から新学期が始まるんで、それにあわせて専門学校に入ろうという感じですね。
――専門学校は入学試験はあるんですか?
特に無いです。一応、語学学校の修了書みたいなものを見せて、それだけですね。
簡単な面接みたいなものもあったかもしれないですけど、前に日本で勉強した経験もあるんでっていうんで。
――専門学校っていうことは、こっちが事前に服の知識がなくても入れるんですか?
それは、入れますね。まったく素人の子で入ってくる子もいますけど、やっぱり言葉もあまりわからない、手で作業しているのもわからない、ってなってくると、
僕がまだ助かったのは、語学がわからないところでも、専門用語とか飛んでくるけど、要はこのことをやってるんだなっていうのがわかるから、
それと専門用語が合致して、言葉が覚えやすかったんですよ。
それすらないと、服の勉強もしないといけない、語学の勉強もしないといけないってなっていくんで……それはすごく助かりましたね。
――イタリアの専門時代の話ってないんですか?
専門もね、マランゴーニという学校だったのですが結構やっぱり自分でコマとって進めていく授業だったんで、ちょっと途中でダラっとしてしまったんですね。
でもこれはいかんと思って、最後にちょっと厳しい学校に移りました。
――とてもすごい向上心ですね。尊敬します。
2年で終わらせました。で、次の学校がとても厳しく、課題が多くて有名な学校だったんですね。
宿題も多いし、授業も基本的に10時から5時か6時まできっちりみたいな学校だと聞いていて、日本で一時期パタンナーの間で有名になった学校で、
それがセコリっていう学校なんですけど、セコリ式っていって一時期セコリのパターンっていうのがどういうものだっていうのが、
日本のパタンナーの間でちょっと聞かれるような時期があったんですね。
それで気になったので、どうせ行くんだったら今までレディースでやってきたし、特にメンズの仕立てに定評のある国に来ているのだから、
メンズを勉強してみようかなと思って、それでメンズのパターンとデザインのコースに入ったんですね。
――なるほど。
そのときは本当に忙しかったですね。パターンを学校で習うじゃないですか。
それを家帰ってからもう一回復習するために4分の1の大きさで、ノートにもう一回作り直して、書き直して、ってやってたんで、それはずっとやってましたね。
――そのときはどんな服を着ていたんですか?
そのころはもうお金も無いんで、結構古着屋……そんなに古着文化ってないんですねイタリアって。
でも古着屋って言うのが何軒かあったりして、ヨーロッパの程度のいい古着ってあるんですよ。
そういうのを見つけてきて着てましたね。ブランド物というよりも、60年代、70年代の古着って感じなんですけど。
日本にあるようなアメリカ中心の古着じゃなくて、ヨーロッパ中心の古着なんで、ちょっと雰囲気が違う感じですね。あまりカジュアルではない。
――そのころはどこに住んでいたんですか?
当時はミラノです。
――どういう生活をしてたんですか?
平日は学校行って、週末になったら友達の家行って、何人かで集まって。で、料理を作りあったり……
――料理はなにを作るんですか?
もうパスタ中心の料理ですね。いろんな地域に市場が週に一回出るんですね、朝市みたいな。
それが土地によって、ここの地域は日曜日、ここの地域は月曜日、みたいにそういうところへいって……ほんとに安いんですよ。
夏場だったらメロンがもう1000リラ、70円とかで。
――イタリアでの生活、憧れます。イタリア国内旅行とかしましたか?
旅行はちょこちょこしましたね。ベネツィアがよかったです。
ベネツィアで2年に一回、現代アートの国際的に有名な大きな展示会があるんですよ、ビエンナーレって言うんですけど、それを毎回見に行ってましたね。
――学校でのエピソードが何かあれば。
学校の学期のおわりに、卒業制作みたいな感じでファッションショーみたいなものをやって、服を作ってた時期があったんですけど、
そこでYKK協賛のYKKのファスナーを使って服を作るというコンテストがあって、それで賞を決めるという。そこで服を出して、賞を取って。
――じゃあ就職もうまく行ったんじゃないですか?
いやそれがね、外国人を雇うっていうのが……これがヨーロッパで労働する厳しさというか、
イタリア人が普通に会社に入って受け取る給料にかかる税金ってあるじゃないですか、それの税金がちがうんですよ。
外国人は、会社が負担する税金が会社が払う給料と同じ額の税金を払わないといけないんですよ。
それは何故かっていうと、失業率が高いから、外国人をなるべく採らないように……
――なるほど。
そういうのもあってなかなか難しかったですね。
その間にイッセイのバイトをしてたんで、イッセイのパタンナーの人とも話しをして、一回お会いしたいんですけどっていう話もして、
といってた矢先に、学校で知り合った友人がアンテプリマの社長と知り合いで、今ファッショショーの準備で忙しいと。
服を着て出てきて、帰ってくる間に変化するようなものがほしいと思っている、っていう話をしていて、で、ちょうどいいのがいますよっていうのが僕だったんですよ。
僕が学校の卒業制作のときに作ったのが、まさに鞄が服になるっていうものだったんですけど、その服の形を変えるっていうのを作ってたんで……
――それはどういうものだったんですか?
鞄でもってきて、ファスナーをあけたら服になるというような……
鞄を広げると服が入ってるんですけど、服にすると鞄が服の一部に変化する。
――なるほど、それおもしろいですね
それで、そういうものを作ったやつがいるからというかんじで、今までの作品集とかをみんな持っていったら、明日からでも来てくれという形になって、それからですね。
――そこで、アンテプリマに入られてどんな仕事をしたんですか?
とりあえずは、入ったときはファッションショーまであと何日って言う状態だったんで、ほんとに寝ずに作って、自分でパターンひいて裁断して自分で縫製して……それはもう大変でした。
――どんなものを提案されたんですか?
それは、ワンピースでチューブトップのワンピースなんですけど、フラップ状になっていて、巻きスカートみたいなワンピースで表と裏の生地を変えて、
巻いてるフラップを反対にまわすと違う柄の服になる。外側は真っ赤で、内側は千鳥格子の生地にプリーツをかけたものでふわっと広がるというような、それも拍手喝采で……
――それで、つづけてという話になったんですね。
そうですね。
――それはいくつのときですか?
26ですね。
――そこから何年ほどアンテプリマには在籍されたのでしょうか。?
10年近くですね……99年の9月に入って、2008年の1月にやめてるんで、約10年ですね。
第二章 MARTHAの原点 イタリアでのデザインワーク→